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<title>DavidCadogan.ca Forums Topic: 『哲學研究』五一四号</title>
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<description>DavidCadogan.ca Forums Topic: 『哲學研究』五一四号</description>
<language>en</language>
<pubDate>Fri, 21 Aug 2026 00:50:52 +0000</pubDate>

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<title>edsfmy82 on "『哲學研究』五一四号"</title>
<link>http://davidcadogan.ca/bbpress/topic.php?id=88895&#038;page#post-105593</link>
<pubDate>Sat, 07 Sep 2013 11:17:59 +0000</pubDate>
<dc:creator>edsfmy82</dc:creator>
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<description>&lt;p&gt;。だが、「誰がスペンサーを殺したのか? いかにして,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/&amp;#50504;&amp;#44221;-c-11.html&quot;&gt;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796; &amp;#50504;&amp;#44221;&lt;/a&gt;? それが問題である」。いささか謎めいた問いが私に突きつけられたのである,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/129136-&amp;#9733;&amp;#53945;&amp;#44032;&amp;#9733;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796;-&amp;#50668;&amp;#49457;-&amp;#48124;&amp;#49548;&amp;#47588;-&amp;#54000;&amp;#49492;&amp;#52768;-p-211.html&quot;&gt;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796; &amp;#54000;&amp;#49492;&amp;#52768;&lt;/a&gt;。 ミシェル・フーコーは『言葉と物』で西欧の思考のシステムの歴史を分析し、その終章に「人間の終焉」というテーゼを提示した。そこで終焉を告げられた人間は、一九世紀的な知が想定する人間であり、スペンサーの理論が依拠するような個人でもある。フーコーはこの人間の基本形式を(知の主体であると同時に客体である)「経験的=先験的二重体」と呼んでいた。 たしかにフーコーとは方法論も違うが、パーソンズは、スペンサーの理論の終焉、つまり進化という「神」の死を、理論それ自身の進化の結果として語ろうとしていた。フーコーとパーソンズの両者にはどこか共通点がある。それは、㈰思考のシステムの歴史を問題にすること自体がひとつの学問的探究を構成しており、㈪ひとつの時代の終焉を告知する「死の発見」を通じて、不安な歴史の現在から問いを発するという構えをもっていることである。つまり社会学的な想像力をはたらかせていることであった。†社会学の動向[#「†社会学の動向」はゴシック体] 私がパーソンズを読みはじめた時代には、「共同幻想論」の吉本隆明や、「物象化論」の廣松渉が注目を浴びており、マルクス主義の系譜にある言説が世の中を賑わしていた。それらの思想や理論の魅力は社会を全体として総括し、批判していく「否定の精神」にある。青年にとってこうした否定は魅力的である。これに比べると社会学の理論は地味であり、また「保守」的な思考、つまりパーソンズに代表される「機能主義」の系譜にあった。社会学は実証的には経験的なモノグラフを生み出し、理論的には体制の側に立つ保守主義的な学問と考えられていた。経験的研究によって社会問題や現実批判の契機を見いだしても、それは個々の矛盾を是正し、社会の均衡を回復する、社会統制の理論に収束すると思われていたのである。 デュルケームの研究で知られる京都大学の中|久郎《ひさお》先生は「逸脱の行為—状況理論」(『哲學研究』五一四号)を展開されていた。それはウェーバーの行為理論やデュルケームのアノミー論を背景にしつつ、基本的にはパーソンズによる行為システムの理論の系譜のうえに構築されていた。また、逸脱行動へのプッシュ/プル要因という視点の導入は、社会性の場へ分析の関心をひらくものであった。C・W・ミルズのいう「社会学的想像力」やさらにラディカルな問題意識が要求される時代であり、中先生もそうした問題意識と直に触れ合う姿勢を示されていた。 このころ大阪大学から京都大学に移られた吉田民人先生は、史的唯物論との対抗関係を意識しつつ、パーソンズのAGIL理論を修正・発展させようとしていた。吉田先生はある種超越的な視点から社会システム論の再構成を図っているようにみえた。見田先生の『価値意識の理論』も、概念図式はパーソンズのAGIL四機能要件の理論をベースにしていた,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/&amp;#45796;&amp;#50724;&amp;#47336;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796;-12&amp;#24180;-ub213f62-&amp;#49688;&amp;#50689;&amp;#48373;-&amp;#49324;&amp;#44033;-&amp;#49828;&amp;#52852;&amp;#51060;-p-145.html&quot;&gt;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796; &amp;#49688;&amp;#50689;&amp;#48373;&lt;/a&gt;。在野では小室直樹氏もパーソンズ理論の形式的な洗練と進化をめざしていた。私はパーソンズの理論を理解し、行為理論をマスターすることが、社会学研究の第一歩だと思っていた。 大学院に進むには社会学史を知らなければならないが、当時はドン・マーチンデールの『現代社会学の系譜』のように社会学史の流れをうまくまとめた著作も翻訳されていた。ただ、その社会学史は分類学的な系譜学に終わっていた。パーソンズの行為理論も社会学史を踏まえて構成されていたが、そこでは社会学史と社会理論が見事に一体化していた。彼の社会理論は社会学的な思考の歴史が現在の探究につながるかたちで書かれていたのである。私はヘーゲルの「ミネルヴァの梟は暮れ方に飛び立つ」という言葉を思い出した,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/&amp;#44032;&amp;#48169;-c-2.html&quot;&gt;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796; &amp;#44032;&amp;#48169;&lt;/a&gt;。パーソンズはそれまでの社会理論の系譜の到達点で満を持して飛び立った「ミネルヴァの梟」のように思えた。†行為理論の伝統とブレークダウン[#「†行為理論の伝統とブレークダウン」はゴシック体] パーソンズは社会理論の核心を「行為理論」に求め、行為の概念を準拠点にして、それまでの社会理論の歴史を検証した,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/&quot;&gt;www.wilmettedepot.com&lt;/a&gt;。『社会的行為の構造』の展望によれば、人間と社会にかんする思考のシステムの歴史には「実証主義」(positivism) と「観念論」(idealism) という二つの伝統がある,&lt;a href=&quot;http://www.wilmettedepot.com/&amp;#51109;&amp;#44049;-c-5.html&quot;&gt;&amp;#54532;&amp;#46972;&amp;#45796; &amp;#51109;&amp;#44049;&lt;/a&gt;。行為理論もこうした伝統のなかではぐくまれたが、行為理論の発展過程で、二つの伝統のいずれでも重要なブレークダウンがあった。それらのブレークダウンは行為理論を「主意主義」(voluntarism) 的に編成しなおすものである。実証主義の系譜からのブレークダウンとしてはデュルケームの試みが、観念論の系譜からのブレークダウンとしてはウェーバーの試みが代表的なものである
&lt;/p&gt;</description>
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