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まだ日が明ける前から、安土に通じる道には人があふれていた

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  • Started 12 years ago by tydzftqqtv

  1. tydzftqqtv
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    ひろ子は、申し分のない良妻であった。常に自分のことを考えて尽くしてくれた。結婚直後に明智城が陥落して諸国流浪中、ひろ子は光秀の母の牧《まき》や幼い子供たちの面倒を一手に引き受けてくれていた。特に越前で朝倉家に志願しようとして主だった朝倉の家臣を汁事《しるごと》に招いた時には、自分の髪を切って酒肴の席を用立てしてくれたほど健気な女であった。 正直、苦労ばかりさせて、これから二人でのんびりと余生を送りたいと思っていただけに、愛妻に先立たれたことは大きな痛手であった。しかし、まもなく親しい友人が集まり、茶会が始まると、いつしか妻への悲しみも茶葉が湯に溶けるように柔らかくなっていった。 その日はなぜか珍しく、吉田兼和の気が高ぶっていた。光秀が問いかけると、「他言は無用ぞ、皆の者。信長公は最近、御幸の間を安土に新築なされた。御存じかな」 光秀は、まだその存在すら知らなかった。「御幸の間は、渡り廊下で安土城の本丸とつながっておるそうじゃ。屋根は総檜皮《ひはだ》ぶきで、殿中はすべて金の延べ板でできておる」「それがどうした。天子が使われる部屋を黄金《こがね》で造って何が悪い」 紹巴が兼和を皮肉った。「それはそうじゃ。しかし臣下の分際で御幸の間を使ったとしたら、どう思われます」 聞いていた四人の顔が変わった,coach 財布 アウトレット。四人の不安が的中したからであった,クロエ 二つ折り財布。 光秀がしぼり出すような声で、「それはまことか」 兼和は無言でうなずいた。兼和が御幸の間のことを知っているということは、当然天皇や公家たちも知っていると推測された。総見寺の御神体に続いて、信長公が何を考えているのか、またわからなくなった。 茶室の五人は無言で茶会を進めた。亭主の光秀は茶筅《ちゃせん》で濃茶《こいちゃ》を練りながら、一つの答にたどりついた。それは、ひょっとすると信長公は主上を無視なされている、あるいは必要ないと感じているのではないかということであった。 恐ろしい考えではあったが、それ意外に信長公の行動に思い当たる理由はないように思えた。光秀は、信長公と足利義昭との確執を思いだした,chloe 財布 2013。不遇を囲っていた義昭が晴れて第十五代室町将軍として征夷大将軍の宣下を受けた、永禄十一年十月のことであった。当日の祝い能興行の演目で、すでにいさかいを起こしていた。それからじつに六年間も二人は陰険に覇権を争った。 しかし今回の朝廷とのいさかいには、愚かでも信長公に味方する気持ちはなかった。光秀は若い日から、武士の棟梁は征夷大将軍であると信じていた。したがって、その官位を与えてくれる朝廷を飛び越える発想は夢にもなかった。官位の叙勲を受けるときも、朝廷には何の疑問も持たなかった。しかし、信長公は違う考えのようである。そう思うと、安土城の御幸の間には御簾は似合わないと勝手に想像した。 師走に入っても、まだ冬の寒さは都に訪れていなかった,オメガ シーマスター。各地の織田家の武将は、安土からの奇妙な話を聞いて戸惑っていた。信長公が各地の大名、小名から歳暮の祝儀を受けており、安土の城下は門前市をなすにぎわいだった、といううわさであった。 光秀も坂本城で、信長公のおかしな振舞いの話を聞いていた。歳暮のご祝儀は理解できたが、献上した銭を後向きになって白洲にばらまき、家臣や訪問者に拾わせているという話であった。 若き日にうつけと言われた信長を思いだした,chloe 財布 リリィ。当時のうつけは芝居であった。しかし今の主君が狂ったとは思われないので、やはりある目的を持ってうつけになられているに違いないと思った。光秀は、歳暮として丹波の名馬三頭に鞍、鐙《あぶみ》、轡《くつわ》をつけて進呈した。 十二月二十日を過ぎて、歳暮の挨拶に羽柴筑前守が播磨から安土に到着した。秀吉は剛毅にも子袖を二百献も女房衆に差し上げて、女たちを驚喜させた。そして誰もが驚いたことは但馬、因幡の銀山から取れた銀千枚を信長公に献上したことであった。 信長公は秀吉の忠義心を喜び鳥取城陥落の功績として、茶の湯の道具十二種を秀吉に贈った。 秀吉は十月の末に鳥取から播磨に帰る道、淡路島にある毛利方の岩屋と由良《ゆら》の城を摂津の池田勝三郎と一緒に攻め落としていた。それは、前々から三好康長と示し合わせた作戦でもあった,ヴィトン 長財布。長宗我部元親に淡路島を占拠されないために先手を打ったのである。 歳暮のご祝儀で信長公の機嫌が良いのを見て、秀吉は思い切って切り出した。「淡路の岩屋と由良城を攻め落としましたが、いかがすればよろしいか」 信長は秀吉の声が聞こえなかったように、平然と、「筑前、大義であった」 そう言うなり、御奥に入ってしまった。秀吉も、あてがはずれて渋い顔をしたままであった。 同じ頃、坂本城の明智光秀の所に斎藤利三が四国から帰ってきていた。利三は元主君である長宗我部元親に呼ばれて、阿波の白地《はくち》城を訪れていたのである。白地城は土佐、讃岐、阿波の三国の接点に位置し、天正六年から長宗我部元親の阿波と讃岐侵攻のための戦略拠点であった。 斎藤利三は旅装を解く暇もなく、光秀の居間に伺候した。「ただいま戻りもうした。元親殿は、筑前守の淡路攻めにいたくお怒りでござりました。それに、おおやけに織田家中の三好康長が岩倉城に立てこもり、長宗我部家に歯向かうとは合点がいかぬとも申されておりました。早速、惟任さまより信長公のご意見をお聞きして頂きたいとのこと、もともと四国のことはこの元親に切り取り御免を許されておるゆえ、信長公のご意向に拘らず、近々康長めを打ち取ると立腹されておりました」 黙って利三の言葉を聞いていた。いまや光秀には、はっきりと秀吉の意図が見えていた。あやつは三好を使って、このわしを牽制しようとしているのだ。 その時、使番が信長の小姓である堀久太郎、長谷川竹、両名から出された回状を持って部屋に入ってきた。早速、光秀がその書状の封を切った。「正月元旦安土城にて年賀を許す、ただし各人祝銭百文を持参せよ」 天正六年以来、五年振りの安土城年賀会の開催であった。光秀に、四年前の茶会の感激がよみがえってきた。全国の大名、小名、商人、町人にもすべて年賀を許すという布れが通達されているようであった。 しかし光秀には、百文の祝銭の文字に不吉な予感を感じた。また、何かわからぬことを考えておられる。いつしか信長公がはるかな存在として遠ざかっていくことが、心に寂然として残った。 年賀の会 明けて天正十年の正月は快晴の天気であった。まだ日が明ける前から、安土に通じる道には人があふれていた。手に手に十|疋《ひき》の鳥目《ちょうもく》あるいは百文の銭を握り締めた人々が、安土城目がけて押し寄せていた。
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