。 八月には、これさえ貰えば何とか実家と世間に顔向けができ借金も返せる、と受賞を切願していた第一回芥川賞の銓考で次席にとどまり、「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる|憾《うら》みあつた」という川端康成の選評に憤激したかれは「小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」(『川端康成へ』)と異常なまでに興奮して食ってかかっている。まさに「舌焼け、胸焦げ」るおもいの明け暮れであったのだろう,coach財布レディース。芥川賞第一回の候補になったかれの作品は『逆行』と『道化の華』。ひとつは世の中の底の流れを、ひとつは表面の現象を象徴しているような題名で、典型的な時代の子である太宰治は、二十六歳だった。 冒頭に引いた手紙の宛名になっているのは、日本浪曼派の中心人物であった保田與重郎である。この年の三月に雑誌「日本浪曼派」を創刊したかれは、太宰より一つ年下の二十五歳で、日本民族独自の美意識と古典を重視する評論を書き続け、思想的に混迷していた当時の青年たちに、やがて強い影響を及ぼして行くことになるのだが、その保田と棟方志功が結びつくまでを語るためには、もういちど「奇想天外の阿佐ヶ谷時代」に戻る必要がある……。 松木満史ら同郷の仲間と一緒に、志功が麻雀に熱中していた阿佐ヶ谷駅に近い今官一の借家の向かいには、不思議な家があった。いつもひっそりとしていて、人が住んでいるのかいないのか判らない。近所の人たちは、その家の主人が、——神経衰弱にかかっているので、外に顔を出さないのだ、と噂していた。今官一は、そこの表札に記されている中山省三郎という名前が、早稲田の露文科の先輩のものであることを知っていた,coach 財布 新作。実際にそのころは神経衰弱気味であったらしい中山が、数年後、今官一に心を許すようになったのは、早稲田露文の同窓であったことのほかに、今の師である福士幸次郎の詩が好きであったからだった。 中山は貧乏していた今に、ツルゲーネフの散文詩の下訳をさせてくれたりした。けれども積年の貧乏には、所詮、焼石に水で、昭和七年の秋、間もなく最初の子供が生まれるというときに、今の家ではガスも電気もとめられてしまった,oakley メガネ。今は近所の銭湯へ行き、「子供が生まれることになったら、お湯を分けて下さい」と頼んだ。この変った申し出を、「いいですよ。お湯なら沢山ありますから」と引受けてくれるのが、当時の阿佐ヶ谷の土地柄であった。今は幾らか安心して、雑誌「改造」の懸賞の予選を通過していた小説の結果の発表を待っていた。そこへ中山が「入選したら写真が要るだろう」と写真機を持って現われ、今を借家の縁側に引っ張り出して写真を撮ってくれた。 そのまま話しこんでいるうちにタ方になり、相手の顔が殆ど見えなくなっても電気がつかないのを|訝《いぶか》った中山は、「……どうしたんだ」と訊ねた,オメガ シーマスターアクアテラ。「実は電気代とガス代がたまっているもので……」という説明を聞いた中山は、「もうじき子供が生まれるというときに、いったい何をしているんだ」と珍しく怒った口調になって、今の着物の袖を引っ張るようにして自分の家へ行き、それから駅前の古本屋へ行って本を売った金を、「これですぐに電気代とガス代を払うんだ」と今の手に押しつけた。以来、今はすっかり中山に心服していた。 あるとき今は、たまたま遊びに来ていた志功を、一緒に中山省三郎の家へ行かないか、と誘った。「中山省三郎って、どすた人だ?」と志功は聞いた。「詩人で、福士幸次郎を好きな人だ。福士さんも、中山さんの詩を褒めていたことがある」という今の説明に、志功は即座に「行ぐ、行ぐ」と立上がった。福士幸次郎に心酔していたかれは、その言を無条件で信用しており、福士が認めたものはすべて、自分もよいものと信じ込む習慣があった。そうした習慣が、のちに出世作『大和し美し』の制作に向かわせる一因にもなっていたのである。 中山省三郎がロシア文学の翻訳家でもあることを今に教えられた志功は、かれの家に行くと、ロシアの漫画映画『せむしの仔馬』のことを話題にして、「ロシアの馬は、ずんぶ面白い恰好で跳ねますな」といった,オメガ 腕時計 メンズ。中山はまだその映画を見ていなかった。すると志功は、「こすた恰好で跳ねるんですよ、こすた恰好で……」といいながら四つん這いになり、後足をあげて何度も飛び跳ねて見せた。その滑稽な感じにおもわず吹き出した中山と今の笑い声に、志功はますます勢いづいて、「まンずロシアの馬づのは面白いもんですな。こう跳ねるんですよ。こすた風に……」そう繰返しながら漫画映画の馬の真似をして部屋中を飛び回った。初対面の相手の意表を突くこの道化ぶりで、いっぺんに中山の気に入られた志功は、それからは一人で、たびたびその家へ遊びに行くようになった。 二 丁度おなじころ、蔵原伸二郎が阿佐ヶ谷駅の近くに引越して来た。木山捷平の『酔いざめ日記』には、昭和七年十一月十日の項に「赤松月船氏訪問。不在。昨夜書き上げた原稿一〇七枚を見てもらうつもりで行ったが。帰りに蔵原伸二郎を訪い、一緒に彼の貸家探しをした。梅田寛の隣のうち(十七円)六、四半、四、二の家に決す,ルイヴィトン ショルダーバッグ。かえりにうちにより、蔵原君が酒二合おごってくれる」と書かれている。 蔵原が新たに借りた家は、阿佐ヶ谷駅から四、五分のところにあって、庭先の道の向こう側がテニスコートになっており、そのテニスコートの先が小さな森になっていたので、庭が狭いわりには見晴らしがよかった。親友であった小田嶽夫の回想によれば、蔵原は熊本の出身で、いかにも九州人らしくどこかゴツゴツした感じがあり声も大きかったが、半面すこし気の弱そうなところもあった、という。小田が知合ったのは、蔵原がまだ慶応義塾大学の仏文科に在学中のころであったが、大学にはめったに顔を出さず、そのかわり外語の夜学のロシア語科に通ったりして、フランス文学よりもロシア文学のほうに傾倒している様子であった。 三田出身の蔵原と、早稲田出身の中山省三郎を結びつけたものは、ロシア文学であったのだろう。阿佐ヶ谷駅の近くに越して来た蔵原は、よく中山の家を訪ねた。志功は中山の家で、蔵原と知合った。そのころの蔵原は、すでに処女短篇集『猫のゐる風景』を春陽堂から出し、新進作家として認められていた。昭和四年一月号の「文章倶楽部」を見ると、かれは従弟の蔵原惟人、それに平林たい子、龍胆寺雄らとともに、文壇の新人として紹介されており、そこに次のような文章を書いている。 ——僕は渓谷と火山の間で生れた。月夜の馬群と、牛と、おしどりと、みそさざいと猫と、さうして渓流の音と深い霧が僕の遠い少年の日の夢に躍つてゐる
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この変った申し出を、「いいですよ
(1 post)-
Posted 13 years ago #
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