しかし旗艦「長門」の長官室におさまって、山本にも同様の感慨はあったにちがいない。 其処には、海軍省の中庭に面した次官室の、薄暗いよどんだ空気のかわりに、まぶしい海の光がさしこんでいた。 日華事変の三年目で、そろそろ物資不足、食糧不足が目立ち始めた東京とちがい、長官のための贅沢《ぜいたく》な食事が待っていた。空気は美《う》味《ま》かった。彼の動静を窺《うかが》い、生命を狙《ねら》っていた右翼の眼《め》のかわりに、今、山本を見守っているのは、麾下《きか》四万の海軍将兵のみであった。 前に記したように、山本は、「おい、長官というのはいいね。もてるね。海軍次官なんてものは、高等小使だからな」 と、副官の藤田中佐に言ったりした。 だが、聯合艦隊の将兵四万が、皆、「大した人物がやって来た」と、山本を信頼の念をもって仰いでいたかというと、必ずしもそうではない,オークリー サングラス 激安。 航空戦隊の荒《あら》武《む》者《しや》どもの中には、ヒットラー張りの勇ましいのが好きなのがたくさんいて、山本が霞《かすみ》ヶ浦《うら》航空隊の副長時代、「赤《あか》城《ぎ》」の艦長時代などに、未《ま》だ一人前になっていなかった若い飛行機乗り、或《あるい》は、すれちがって彼に接する機会を持たなかった飛行機乗りの或《あ》る者は、新任の司令長官に対し、かなり懐疑的であったようである,オークリー サングラス。「赤城」の飛行隊長淵《ふち》田美津雄《だみつお》少佐などは、荒武者中の荒武者で、持ち前の奈良弁で、「山本五十六いうのは、妙にイギリス、アメリカ好きで、弱いらしいぜ。腰抜けとちがうか」 と公言していた。 当時の聯合艦隊は、泊地を抜錨《ばつびよう》すると、広い太平洋を東西南北、自由に疾駆して訓練に励めるかというと、そうはいかない,オークリー フロッグスキン。世界第三位の艦隊に、実は、常に油の不安が影を射《さ》していた。使用出来る燃料の量は限られており、無駄使いは許されず、艦隊の演習場は、ほとんど日本近海の太平洋岸に限定されていたのである。 それも、射撃訓練は宿《すく》毛《も》又は足摺岬《あしずりみさき》の沖、紀伊水道から伊勢湾にかけては何、冬の魚雷発射訓練は瀬戸内海の柱島《はしらじま》という風に、その種別と場所も概《おおむ》ね決っていて、たとえば、別府湾を出て横須賀へ向うのに、燃料を無駄にしないよう、昼間訓練、薄暮訓練、夜間訓練、払暁《ふつぎよう》訓練と、一連のはげしい演習が、入港の直前まで続くのであった。 これが帝国海軍のいわゆる「月月火水木金金」の猛訓練であるが、それは事情によって、日曜とか祭日とかのきまり《・・・》を無視したという意味であって、休みが与えられなかったという意味ではない。 大体、四週間以上陸に上らずに訓練を続けていると、不測の事故が発生しやすくなるということは、統計で分っている。下らないことで、喧《けん》嘩《か》が起り、事故が起る。 したがって聯合艦隊の訓練は、ほぼ四週間を目安として、母港の呉《くれ》や佐世保《させぼ》、或は別府の港などへ入り、休養、息抜きをするように計画してあった。 数千乃至《ないし》数万の男の、一カ月間の鬱《うつ》気《き》を吐かせるのであるから、辺《へん》鄙《ぴ》な港では都合が悪い。対象になる人間の数が少ないと、陸の上で又不測の事故が起る。それで別府なぞは、艦隊の休養地として、最も望ましいところとされていた。 何週間もの洋上生活で、陸の灯《ひ》が恋しくなって来るのは、参謀や司令官も同様で、艦が横須賀へ入ると、彼らは、東京の、或は鎌倉《かまくら》、逗子《ずし》、葉山あたりの家庭へ帰って行く。他の港の場合だと、あらかじめ打合せて、細君を呼寄せておく人もある。呉や佐世保の「海軍御用」の旅館には、一と部屋一と部屋が、如《い》何《か》にも新婚の小家庭の趣にしつらえてあるところが、よくあった。 山本も、「長門」が入港すると、きっと陸の旅館で泊った。横須賀入港、上京の場合は、芝の水交社に泊ることが多かった。水交社以後の行動については、臆測《おくそく》のかぎりでないが、彼は青山南町の自宅へ帰るよりも、忍んで千代子に逢《あ》っている時間の方が長かったようである。--------------------------
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下らないことで、喧《けん》嘩《か》が起り、事故が起る
(1 post)-
Posted 12 years ago #
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