それから高野は毎晩のように店にやって来て、時折、早希子を食事に誘った。筋肉質ではあるが、太り気味の大きな身体に大きな顔、大きな手,tumi 26141。何もかもが大きいのに、目だけが小さく、象のそれのようにつぶらで、じっと見つめられると、柔らかく吸いこまれていくような安堵感にかられた。初めて高野に抱かれた時、早希子は春の草萌える大地に包まれている気分になった。 三十代の前半で年上だった妻と死別して以来、高野は独身を通していた。結婚を口にされた時はたいそう驚いたが、店のママに打ち明けると、「それはいまどき珍しい玉の輿《こし》よ、早希ちゃん」と真顔で言われた。高野は小さいながらも安定した経営状態の、リース関連の会社を経営していた。「こんなに年の離れた男がいやじゃなければ」と、高野は慎ましくも熱心に求婚してきた。 早希子は「全然、いやじゃない」と答えた。その時すでに、早希子の中には高野との間にできた赤ん坊が育っていた。 もしも、あの子が無事に生まれていれば、と早希子は今も思うことがある。いろいろなことが変わったかもしれない。沢田と出会うこともなく、不眠に苦しむこともなく、今頃は子供の進学のことばかり考えていたかもしれない。深夜過ぎてから六本木のスーパーの前で煙草をふかしている女を、心の底から軽蔑するような人間になっていたかもしれない。 高野と簡素な式を挙げた十日ほど後、早希子は流産した。 学生時代、つきあっていた男との間に子供ができて、堕胎したことがあった。産むか産まないか、さんざん迷ったあげく、手術可能なぎりぎりの時になってから冷たい手術台に上がった。 堕ろした赤ん坊はすでに立派なヒトの形をしていた、と後になって聞かされた。しばらくの間、身体がなかなか元に戻らず、気持ちの悪い出血が続いた。もしかすると、あの時の手術が原因で流産してしまったのかもしれない、と早希子は思ったが、そのことは高野には言わなかった。 高野との間に、その後、赤ん坊はできなかった。別に欲しいとも思わなかったし、高野も子供を作ろうとは言い出さなかった。 今夜は朝までここにいることになるのかもしれない、と早希子は思った。あまり食べたくはないが、いつもの習慣でセロハンにくるまれたバナナに手を伸ばした。セロハンを剥がし、少しだけ皮をむいて、ひと口、バナナを齧《かじ》った。 携帯電話は鳴り出さない。圏外になっていないことを確かめてみる。何度確かめても同じである。携帯は意味のない、ただの小さな箱のようにしてそこにあるだけである。 少し風が出てきた。頬を撫でて吹き過ぎていく風の芯の部分に、かすかな冬の名残があるようにも感じられた。遠い遠い、北のほうから吹いてくる風なのだろう、と早希子は思った。 札幌のことを考えた。札幌という街にはまだ一度も行ったことがない。札幌出身の沢田に、一緒に行こうよ、と誘われ、実際に彼が飛行機のチケットを手配してくれた時もあった。だが、結局、早希子は高野に嘘をついてまで、東京を離れることができずに終わった。 早希子にはこれといった友達がいない。喜んで共犯者をかって出てくれそうな人間など、どう考えても浮かんでこない。それは自分の人生そのものを象徴しているようにも思える。 離婚したとはいえ、独身でいた沢田は、早希子が帰る時間を気にしたり、小旅行に行くことを拒んだりすることを、半ば冗談めかして責めたてたものだった。「ほらほら、また早希子は良家の奥様になろうとしてる」と彼は笑みを含ませながら言った。「都合が悪くなると堅物を決めこむんだね。困った人だな。たった一泊の旅行なのに。一ケ月間、ヨーロッパを回ってくるって言ってるわけじゃないんだよ。友達と行く、って言えばいいんじゃないのかな。一人旅に出る、と言ったっていい。子供じゃないんだから、そのくらいできるはずだと思うけどな」 その種の策を講じないでいる早希子の、自分に向けた情熱の度合いを計ろうとしているような口ぶりだったが、果して本当にそうだったのかどうかはわからない。「嘘がつけないのよ」とその時、早希子は言った。「そういう性分なの。嘘が顔に出ちゃうのよ」「なんだかんだと言って、きみはご亭主が誰よりも大事なんだよな」そう言って、沢田は早希子が左手の薬指にはめている、銀色のマリッジリングをわざとらしく爪で弾いてみせた。本気でそう言っているわけではない、これはただの冗談、ちょっとしたお遊び……そう言いたげに沢田は、マリッジリングに指をかけ、ぐいと力をこめてはずそうとしてみせながら、にっこりと笑いかけた。 話が深刻なほうに流れそうになると、沢田は決まってそういうことをした。どこまで本気でどこまで冗談なのか、見当もつかない,mcm バッグ。案外、本気だったのかもしれない、と思ったのは別れた後になってからであって、深く関わっている頃、早希子は彼の、恋の演出とも呼べる幾つかの言動の真意がわからずにいた。そして、わからないからこそ、かえって強く惹かれていくことになったのだった。 沢田と出会ったのは五年前のことになる。あれはもう、五年も前のことなのだ、と思うと、懐かしいというよりも不思議な気持ちにかられる。 ただの不眠症の主婦でいることに、嫌気がさし始めた頃だった。『アンクルキャット』のママは、まるで早希子がそんな気分に浸っていることをどこかで見知っていたかのように、時々、電話をかけてきた。 早希ちゃん、またうちで働かない,バーバリー 財布 メンズ 二つ折り? と何度か言われた。「高野さんの手前もあるだろうからね、週に二日だけでもいいのよ。七時から十一時まで。どう? それなら問題ないでしょう? うちで働くんだったら、高野さん、なんにも文句は言えないはずだもの。何たって、この店は高野さんと早希ちゃんの結びの神になったところなんだものね」 高野は、早希子がまた元の古巣に戻りたいのなら、そうしてもかまわないよ、と言ってくれたが、早希子にその気はなかった。酒の匂いは嗅ぎたくなかった。したくもないのに、男たちにいい顔をしてみせるのもいやだった。 ちょうどその頃、聞いたこともない翻訳事務所が、翻訳者募集の広告を出しているのを雑誌で見つけた。 英語には学生時代から自信があった。外国で暮らした経験もなく、特別に勉強したわけでもない。それなのに、英語だけは他の科目に比べて、図抜けた成績を収めていた。大型書店でペーパーバックの洋書を見つけると、買って来て辞書片手に読みふけってしまう。もしかすると自分は、日本語よりも英語のほうが好きなのかもしれない、と思ったことさえある。 おそるおそる、住所を頼りに翻訳事務所を訪ねてみた。------------------------------------
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