。 まわりの森、藪《やぶ》、土手、部落からおびただしい数の美濃兵が湧《わ》き出てきて、信長軍の両側を突き、かつ退路を遮断《しゃだん》し、さらにいままで退却をつづけていた美濃軍が、いっせいに旋回して織田軍の先鋒を突きくずしはじめたのである。 美濃風の戦鼓、陣鉦《じんがね》、陣貝が天地に満ち、織田軍は完全に包囲された。(いかん) とおもったときは信長は馬を尾張にむけさせ、戦場からの脱出をはかったが、美濃軍のなかでも猛将で知られる日根野備中守《ひねのびっちゅうのかみ》兄弟が信長の旗本をめがけて火の出るように攻め立ててくるため動きがとれない。 織田方の崩れを見て、稲葉山城から美濃軍の主力がどっと攻めかかり、織田軍を分断しつつ包囲殲滅《せんめつ》にとりかかった。 信長は身一つで血路をひらき、やっと尾張に逃げ落ちたが、対岸の美濃では羅《ら》刹《せつ》に追われる地獄の亡者《もうじゃ》のように織田兵が逃げまどって惨澹《さんたん》たる戦況になっている。 やがて陽《ひ》が落ち、暮色が濃くなるにつれて織田兵は救われた。闇《やみ》にまぎれてかれらは南へと退《ひ》きはじめた。 夜が、退却軍を救っただけではない。織田軍の一将校が、かねて野伏《のぶせり》の群れを稲葉山の峰つづきである瑞竜寺山《ずいりゅうじやま》の山麓《さんろく》に伏せさせておいた。かれらがかねての手はずどおり、山麓でおびただしく松明《たいまつ》を焚《た》き動かしたため、城を空けて野を駈《か》けまわっている美濃軍が、「さては本城に織田方の別働隊がとりついたか」 と錯覚し、いそぎ包囲陣を解いて稲葉山にひきあげたため、織田軍はあやうく虎《こ》口《こう》を脱することができた。 この松明の虚陣を張らせて全軍を潰滅《かいめつ》から救った織田方の一将校というのは、この日一隊を率いて殿軍《しんがり》にいた木下藤吉郎秀吉であった。 さらに、信長を危地におとし入れた美濃軍の巧妙きわまるこの戦術は、「十面埋伏《じゅうめんまいふく》の陣」 と、いわれるもので、その立案者——だと尾張方面に伝聞された人物は満十七歳の若者でしかない。 若者は美濃不《ふ》破郡《わのこおり》にある菩《ぼ》提山城《だいさんじょう》の城主で、竹中半兵衛重治といった。のちに半兵衛は織田家にまねかれ、秀吉の参謀となり、諸方の作戦に参画し、天正七年、播州《ばんしゅう》三木城攻めの陣中で病死する。いずれにせよ信長はこの合戦で、敵の半兵衛、味方の藤吉郎によって、智謀智略というものの価値の高さを知ったのであろう。 一方、明智十兵衛光秀はこれらのうわさを越前の一乗谷で聞き、「さても信長とは働き者であることよ」 と、従弟の弥平次をつかまえて感心した,coach 財布 人気。光秀にすれば、敗れても敗れても「美濃」という富強の土地に武者ぶりついてゆく信長のぶきみなほどのしぶとさにあきれるおもいもし、同時に、(あの執念ならついには美濃を併呑《へいどん》するのではあるまいか) とおもいもした。信長はすでにこの年五月に三河の徳川家康と同盟して東方の脅威を去っている。北方の美濃攻略に専念できるはずであった。(もし美濃をとれば、天下を望むこともできるのではないか) 朝倉家に身を寄せている光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。光秀奔走 光秀の野望は、一つである,chloe 財布 新作。「幕府を中興せねばならぬ」 ということのみであった。京で虚位を擁するにすぎぬ足利将軍家に天下の権をとりもどさせ、むかしどおりの武家の頭領としての威信を回復し、諸国の兵馬を統一し、それによって戦乱をおのが手におさめてみたい。 そういうことである。(たかが、一介の匹《ひっ》夫《ぷ》の身で) と、この光秀の野望のとほうもない大きさにお槙《まき》や弥平次でさえ、光秀のあたまを疑わしく思うことがある。 が、光秀とは妙な男だ,chloe 財布 人気。この男が、越前一乗谷の家の一隅《いちぐう》で荘重にこのことを語りだすと、聴いているお槙も弥平次も、自然と気持が高揚してきて心気おどり、眼前に極彩色の泰平の絵巻があらわれ出るような錯覚にとらわれるのである,coach 財布 激安。 光秀、朝倉家で二百石。 かれが、独力をもって地上で得た最初の収入であった。 ところがその二百石の身代も、天下を志すかれにとっては大したよろこびではないらしい。 げんに朝倉家の家老朝倉土佐守にともなわれてはじめて義景に拝謁《はいえつ》したときも、「思うところがござれば、御当家の客分にして頂きとうござりまする」 と言い、二百石の知行を辞退した,coach 財布 新作。光秀の希望は、二百石の身分だけはもらい、知行地は要らない。家族が衣食できるだけのものを御《お》蔵米《くらまい》から受けとらせていただく,coach 財布 アウトレット。そのかわり進退の自由な客分にして頂ければ。 というものであった。 越前の王朝倉義景は、よほど凡庸な男であるらしい。こういう光秀の申し出について、「なぜ左様なことを申す」 と疑問を投げるべきであった。下問してやれば光秀はここぞとばかりに「幕府中興の素志がござれば」と、答えたであろう
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19266_14
(1 post)-
Posted 12 years ago #
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