わたしたちは、将来に起こるかもしれないゲリラに対して、じゅうぶんな備えをしている。万一ボリビアで再び起こったとしても、成功することは難しいとおもう」 43 運命の待ち伏せ ホアキン支隊の全滅は八月三十一日であるが、本隊の状況もそれ以前から悪化しつつあった。ひところは五十人に近かった隊員も、七月末には、二十二人に減ってしまっていた。そのうちチェをふくめて三人が負傷や病気で、戦力が低下しているありさまだった。七月だけでいえば、三回の戦闘で、政府軍に七名の戦死、十名の負傷という損害をあたえはしたものの、チェの方も二名を失い、一名が負傷した。そして、農民たちはいぜんとして、ゲリラに参加しようとしなかった。 八月二日には、喘息用の最後の注射もうってしまった。昼も夜も辛《つら》く、ノボカインの静脈注射をこころみたが、これも効果はなかった。チェに残っているのは、不屈の気力だけであった,chloe 財布 2013。が、かれも人間であり、人間であるが故に、おのれを制しきれない瞬間を持たねばならなかった。それは八月八日のことだが、荷物を背負わせている小馬が進もうとしないのに腹を立てたチェは、かっとなって、小馬の首を激しく鞭打ち、かなりの傷を負わせてしまった。 馬も人と同じく疲れきっているのだ。それを鞭打ったところで何の役に立とう。その夜、チェは同志を集めていった。「いまのわたしは、人間の形をしているにすぎない。小馬の一件は、自制心の欠如を示す例だ。やがては軽減するだろうが、こういう状態はみんなにものしかかっているにちがいない。耐えられないと感ずるものは、そういうべきだ。いまや大いなる決意をすべきときである。この種の闘争は、ぼくらを最高の革命家たらしめる機会をあたえてくれるのみならず、人間としても進歩させてくれるのだ,coach 財布 人気。そのどちらも達せそうにないものは、そういって戦場を去るべきだ」 チェのきびしい自己批判の言葉は、隊員たちに受け容れられ、かれらの心を動かした。キューバ人は全員、そして何人かのボリビア人たちも最後まで戦い続けると口ぐちにいったが、同時に隊員たちの間に論争をまき起こした。誰も彼も疲れていた。論争はすぐに次元の低いものになった。馬に、薪《たきぎ》を運ばせるかわりに私物を運ばせたのはけしからんといったような下らないことで、興奮したかれらはどなりあい、チェにたしなめられる始末だった。★ ホアキンの隊が全滅したのは、このような時期においてであった。 ホアキン隊は総計十一名、生き残って捕虜となったカスティーヨを除いて全員が戦死した。その中に、日系のフレディ・マイムラがふくまれていた。ボリビアの新聞「ロス・ティエンポス」によると、フレディは生きて捕えられたが、革命ゲリラ万歳! と叫んで反抗したため、射殺されたという。キューバ政府はのちに母親ローサを招待し、ハバナに、フレディ・マイムラ小学校をつくることによって、かれの死にむくいた。また、ロサリオ・イサベルによって「エルネスト・フレディ・マイムラに捧げる歌」が作詩された《〈*八五〉》。フレディがゲリラに参加を認められたのは、ボリビア出身であることのほかに、おそらくは医師だったからであろう。指揮官のチェをふくめて、ボリビアで戦った隊員の中には、医師の資格をもつものがわりあいに多かった。医師のような特殊技術者はそう簡単には補充できないので、選抜のさいにその点が考慮されたものであろう,オメガ シーマスターアクアテラ。ボリビア人のフリオや前記レケ・テラン将軍の話に出てくるペルー人ネグロ、チェの日記ではモロ、ムガンバ、エル・メディコなどの名で出るキューバ人は、ハバナの病院の外科部長だった。 チェは九月二日のボイス・オブ・アメリカによってはじめてホアキンの死を知った。しかし、はじめのうち、チェはこのニュースを信じなかった。ボリビアの国内放送が何も告げなかったからである。その上、放送自体にも矛盾があった。三十一日にホアキンら十人を全滅させたといいながら、二日後に新しい戦闘で政府軍兵士が戦死したとも放送した。チェが信じたのは、ペルー人の医者ネグロが殺されたのち、カミリに運ばれたという九月四日の国内放送だけだった,coach 財布 ピンク。 七日になると、同じ放送がターニアの死を伝えた。チェはこれにも半信半疑だったが、大統領バリエントスが彼女をキリスト教によって埋葬し、その式にも参列したこと、さらに二十二日には、オバンド陸軍総司令官と共に記者会見し、押収した文書をもとにくわしい説明を行なったことを聞くと、さすがに信じないわけにはいかなかった,chloe 財布 リリィ。謀略放送にしては手がこみすぎていたし、政府軍兵士の動きがにわかに活発になってきたからである。それは、いままで二方面に分けられていた圧力が、一本になったことにも通じていた。★ チェたちは、その圧力をさけるために、しだいに高地の方へ移動して行った。八月ごろは、標高六、七百メートルの地区で戦っていたのが、九月半ばを過ぎると、千メートルをこえる地区から、ついには二千二百八十メートルのピカチョ部落へ移った。その付近一帯は、三つの県(チュキサカ、コチャバンバ、ボトシ)が接するところで、多人数の政府軍はそう簡単には追いかけられないのである。 九月二十六日、チェたち二十二人は、ピカチョからイゲラ村に到着した。村には、女が残っているだけで、男はすべて姿を消していた,ルイヴィトンモノグラム 長財布。調べてみると、北方三十キロのところにあるバリエ・グランデの助役から村長にあてた通達が発見された。ゲリラについてのどんな情報でも、費用はもつから連絡せよ、というのである。村長はむろん姿を見せず、村長夫人は、隣のハグエイの町でお祭りがあるのでみんな出かけており、連絡したものはいない、とぬけぬけと嘘をついた。
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