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すなわちテュポロギー的存在・歴史把握が成り立つのである

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  • Started 12 years ago by fdrianijh

  1. 。それは神の「言」として、神をあらわす(ヨハネ一・一八),aokley サングラス 通販。神の言との出会いは、神御自身との出会いなのである。神の言をきき、神の言に従う者は、神御自身にきき従うのである。ちょうど——あえてアナロジー(異質なもの同士に認められる相似,ヴィトン 長財布。ゆえにこれはあくまでもののたとえなのだ、ということを忘れてはならない)を用いるなら、テレビ電話から発するのは音や光にすぎなくても、あるいは手紙の字はインクのしみにすぎなくても、我々がそこで接しているのは語り手自身、書き手自身であるように、あるいはそもそも人が私に語りかけ私がそこで認め、聞くのは、光であり、また音波にすぎなくても、我々はそこでその人自身と出会っているように——神の言との出会いは神御自身との出会いなのである。そのように神の「言」は「神」をあらわす。神の言は神から出たものとして「神の子」であり(ローマ一・四、ガラテア二・二〇、ヨハネ三・三五以下)、神の言との出会いは神との出会いであるゆえに、「神の子」は「神」なのである(ヨハネ二〇・二八、ヨハネ一・一参照)。神の言が神と無差別に同一だというのではない。存在は「このように」あるべきだという定めは、存在が「ある」ということの根源(創造神)の意志であり言であることによって、それ自身究極者でありつつ、存在に対して神をあらわす。すなわち神の言のみが神をあらわすのであり、言との出会いは神との出会いにほかならない、ということなのである。 さて統体構造への定めとして、キリストは存在の原型という意味を持っている。だからここにテュポロギー的な歴史・存在把握が成り立つ。テュポロギーとは、キリストと世、また「キリストの領域」と「キリスト以前・以外の領域」とは、対応しつつ逆の内容をもつという見方である。すなわち世は統合への定めのもとにありながら、この定めに即し定めを実現してはいない。これは単に世の存在がキリストに根拠づけられていないというのではなく、それはキリストに敵対する力、この世を支配する力の支配下にあるのだ(原罪)。それゆえ、世の存在はまさにキリストの定めに反しているという意味で、倒錯に陥り、裏返しの形をとっている。従ってこの存在をキリスト自身と比べ、また世の存在がキリストの定めに即してとった形と比べるなら、そこには逆対応の関係がみられるのである。こうしてキリストと神を知らぬ世は、原型とその倒錯した写しの関係になり、またキリスト以前・また以外の領域の歴史と、キリスト以後・キリストを根柢として成り立つ歴史とは、やはり逆対応の関係となるのである(ローマ五・一二〜二一、ガラテア四・二四以下、ヘブル八・五、ヨハネ六・四七以下等)。すなわちテュポロギー的存在・歴史把握が成り立つのである。同様にして構造の超越的原型としてのキリストは、この世にある仮象・倒錯に対して「真の」ものであるといわれる。キリストはまことのパン(ヨハネ六・三二〜三三)、まことの葡萄樹(ヨハネ一五・一)、まことの光(ヨハネ一・九)なのである。存在の原型というと我々は当然プラトンのイデアやアリストテレスのエイドス(形相)を想起する。実際、ここにはあるアナロジーがあることは否定出来ず、アナロジーがあるからこそ、キリスト教は実際プラトンやアリストテレスの哲学と結びつくことが出来たのだ,オメガ メンズ 時計。しかし他方、違いもまた明らかであり、決しておろそかにすることは出来ない,oakley サングラス 激安。第一に、キリストはイデアのような概念・理念、すなわち思惟の内容ではない。キリストが信徒に対してあらわとなるのは、決して思惟の活動の結果ではない。信仰はむしろ思惟の連続性を断つ性格を持っている(第四章〈2〉)。思惟が、人間存在の根柢を、特定の理念とか、あるいは特定の律法とか、人生の特定の目標とか、あるいは特定の人間関係のあり方としてとらえ、この上に自己の存在を基礎づけよう、こうして神の前に立とうとするとき、キリスト信仰はかえってこれらの努力の虚しさをさばくのである。思惟の対象となるような「何か」「何故」「如何に」が、存在の究極の問いへの答えを与えるのではない。キリストは、人間が理念の支配に対して、また律法に対して、自己に対して、世に対して、執着に対して死ぬときにはじめてあらわとなるのである。自己に死ぬとは、思惟による存在把握の努力の放棄にほかならないのである(第四章〈2〉) 第二に、キリストと世との関係は連続的ではない,ルイヴィトン 財布 モノグラム 二つ折り。上述のように、キリストと世とは逆対応の関係にある。即ちキリストと世とは、真と偽、光と闇、生命と死……として対立し、世はキリストに敵対する力の支配下にある
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    Posted 12 years ago #

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