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秩序を欠いた状態

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  • Started 13 years ago by fbrahamza

  1. 。このとき、他方では人自身が統体としての存在の一部となる。換言すれば、人は他者とのかかわりを真に恢復するのだ。宗教的実存になるとは、大脳皮質に描きこまれていたプログラム、存在の平面的な青写真が一旦消し去られて、それが存在それ自体の法則、すなわち統体への定めに即して再生され、それによって人格それ自身が統合されるとともに、同じ定めに従って、他者とも統体を成すようになる出来事なのである,クロエ 二つ折り財布。このときはじめて、存在は統体へと定められている事実が認識されるのである。これは出来事であって、事柄上、目的を設定してこれを実現させるという知性の営みとは違う。ゆえに知性主義は宗教的実存に至ることはできない。だから自然的理性は、宗教的真理を認識できないということが成り立つのである。だからまた、回心は知性主義的な、目的を設定してこれを実現する自力によっては達成されないのである。知性主義は、そもそもプログラムの解消などという事態に決して想い至ることはできないからだ。〈3〉宗教的実存の倫理 統体になったときに、人は統体への規定そのものをも自覚する。換言すれば、その前は人は人を宗教的に実存させる真理の中になく、真理を知る条件をも欠いているのである(キェルケゴール)。新約聖書の用語でいえば、キリストが真理であり、聖霊(統体化の原理)が真理をもたらし、人に真理を知る条件を与えるのである,ルイヴィトン 財布 モノグラム 三つ折り。これがキェルケゴール的な「瞬間」であり、その前は、人は「原罪」の中にある。原罪とは、その本性上抽象的、統一的な言葉の世界の中に生まれてきた人が、先ず知性主義的なあり方に陥る結果、存在を統一の観点から理解・処理せざるをえず、その結果統体性から疎外されていることなのである。原罪はゆえに個々の人間の責任とは言い難い。しかし原罪の状態の中で陰に陽にあらわとなるさまざまな矛盾相剋に目をふさいで原罪の状態にとどまり、さらに深みに入り込んでゆくところには、個人の責任も問われうるであろう。ちなみに、罪とは真理からの疎外のことであるが、罪の形式は、秩序という観点からみれば、(1)秩序を欠いた状態(アノミア)、(2)正当な秩序への違背、(3)不当な秩序の強行ということになるであろう。しかしこの場合、秩序は一般に統一性的なるものに拡大して考えることができる。たとえば個人の場合、統一性は人格形成の目標にあたる。あるいは統一性を精神性という言葉で置きかえてみるなら、以上の罪の三つの形式は、キェルケゴールの『死に至る病』における絶望の三つの形式、すなわち(1)無精神性、(2)弱さの絶望、(3)強さの絶望に対応する。さらに新約聖書では(1)無律法、(2)律法違反、(3)律法主義の三つの形式が対応する,chloe 財布 リリィ。しかし本書における「統一性」は、個人的・対人的・社会的の三つのあり方および快の追求・悟性・理性のどれかを究極のものとする知性主義のそれぞれの領域に適用できる概念なのである。いずれにせよ罪の概念は統合への規定によって照明される。この「定め」がなければ、世が定めに即していなくても、そもそも罪はないであろう。また、定めがあっても、世がこの定めに即していれば罪はない,oakley サングラス 激安。定めがありながら、世がこの定めに服していないところに、罪が成り立つのである。 さて宗教的実存(自覚的に統合への規定に即することをはじめたあり方)の以上のような認識は、やはり宗教的実存の認識能力に由るのであり、これを宗教的実存の理性と呼んでよい。これは知性主義の立場に死に、統体への規定を自覚した理性なのである。宗教的実存の理性は、統体としての実存の、一機能としての知性であって、かつてのように、自己と存在一般の究極の主となろうとする知性ではない(統一性の観点から存在を把握・系列化・処理するということは、一方的な支配にほかならない)。自己が究極のものではなく、むしろ統体の一機能であることを自覚した知性、世界観を完結させることを求めず、統体の一機能としてそのつど問題を見出だし、これを統体性実現の方向に向けて解決することを求める知性なのである。 宗教的実存の理性は盲目ではない。それはなるほど自然的理性の立場を超えてはいる,ヴィトン 財布 モノグラム。しかしそれは事実を無視するということではない。全く逆に、一方では存在の統体性の事実を認識し、他方では統一性の究極化によって曇らされない眼を以て、あらゆるレベルの事実について、率直に「あるものをある」と認めることのできる理性なのである。 それだけではない。「あるものをある」とすることは、要求された規範でもあるゆえに、「あるものをある」とすることはとりもなおさず、「あるべきことをあらしめる」ことでもある
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    Posted 13 years ago #

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