篠川さんは『第八巻 それから』を再び筺から出して、表紙をめくった。俺は椅子の上で伸び上がり、改めてサインを覗きこむ。「夏目漱石 田中嘉雄様へ」 筆圧が弱いらしくところどころ線が細い。よく見ると女っぽい字だ。真似のしやすそうな癖のない字だが、俺の知っている祖母の筆跡ではなかった。「誰かが持ってたこの全集をビブリア古書堂に売って、それを祖母が買ったってことですよね」 俺が言うと、彼女は本から顔を上げた。「……そういうことになりますね」「前の持ち主だった人が落書きしたんじゃないですか? この『田中嘉雄』って人がそうだったとか……」「いいえ、それも不自然なんです」 彼女は本に挟んであった値札を俺に見せた――「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」。「この値札はわたしの祖父が、ビブリア古書堂を開店したばかりの頃に使っていたものです。今から四十五、六年前ということになりますね」 祖母が『漱石全集』を買ったのもその頃ということだ。四十五、六年前というと西暦では――ぱっと数字が出てこない。まあ、別にいいか。「この値札には『書き込み有り』と書いてありません」 と、指を差しながら彼女は説明する。「古書店では仕入れがあると、まず本の状態をチェックします。わたしがさっきやったようにです。こんな目立つところに書きこみがあれば普通は気付きますし、値札にもそのことを書くはずなんです。後でお客様からクレームがつくこともありますから」「……あ」 そういうことか。俺にもやっと分かった。「落書き」のあることが値札に明記されていないのは不自然ということだ。「だから、あなたのお祖母様がうちの店でこの全集を買った時、この偽の署名はなかったことになるんです」 俺は腕組みをする。なんだか話がおかしくなってきた。俺と彼女の言っていることがどちらも正しいとすると、この偽のサインをした人間はどこにもいないことになってしまう。そんな馬鹿な。「あ……」 俺ははっとした。「どうしました?」「……ひょっとすると、祖父がやったのかも」「お祖父《じい》様、ですか?」「何十年も前に死んでるから、俺は会ったことないんですけど、うっかり祖母の本棚に触って大騒ぎになったみたいで……」 母から聞いた話では、もう少しで祖父を家から叩き出す勢いだったらしい。もし本に触っただけではなく、落書きまでしたのだとしたら――本に触った俺を殴ったのも分からないではない。昔の悪夢が蘇ったんじゃないだろうか。「もう一度同じことをやったら、うちの子じゃなくなるからね」というあの言葉も、祖父のやったことが頭にあったのかもしれない。「他にやりそうな人はいないと思います。みんな本棚に触ろうとしなかったし……」 しかし、篠川さんは静かに首を横に振った。「わたしは、違うと思います」「えっ?」「他のご家族ではなく……お祖母様ご自身が書かれたものだと思います」 彼女はきっぱり言った。「なんでですか?」 と、俺は尋ねた。どうしてそんなにはっきり言えるんだろう。「勝手に落書きされたとしたら、お祖母様が放っておかれたのは変です。この本には文字を消そうとした形跡がまったくありません……もし消すのが難しかったとしても、この八巻だけ買い直すことはできたはずです。さっきもお話ししたように、決して高価な本ではありません。何度も増刷されて、新刊書店でも長い間売られていました」「でも……別に放っておいたつもりはないかもしれないですよ。誰かが勝手に書きこんで、祖母がそのことに気が付いてなかったってことも……」 俺は途中で口をつぐんだ。それこそありえない話だ。五浦家の観音菩薩はそんなに甘くなかった。誰かがあの部屋の本に触ったとしたら、すぐに気付いたはずだ。(……本当にばあちゃんが自分で書いたのか) もしそうだとすると、ただのいたずらとは言えなくなる。あの祖母が本を汚さなければならない事情があったということだ。俺は眉をぎゅっと寄せて腕組みをする。「わたし、それにまだ気になっていることがあるんです。この値札ですけど」 不意にぷつんと言葉が途切れる。俺が目を上げると、篠川さんはぎょっとしたように視線を膝に落とした。つややかな長い黒髪が頬を隠している。「……あの……申し訳ありません……」 彼女はぼそぼそと頼りない声で言った。『漱石全集』を渡す前の弱々しい態度に戻ってしまった。なにが申し訳ないのかさっぱり分からない。「え? なにがですか?」 俺は訊き返す。「……だから……ご迷惑を……」「え? すいません。もう一度言ってもらっていいですか」 聞き取りにくさに身を乗り出すと、篠川さんは窓際に下がろうとする。俺がなにかやったんだろうか。戸惑っていると、彼女の白い喉がぐっと動いて、変なトーンの声を絞り出した。「こっ、この署名が本物かどうか、だけだったのに……ちょ、調子に乗ってお喋《しゃ》りしてしまって……」 ますますわけが分からない。「む、昔から言われるんです……本のことばっかり、よく喋る、って……」 窓に映っている自分の姿に気付いたのはその時だった。丸椅子にどっかり腰を下ろした大男が、眉間に何本も皺を刻んで、刺すような細い目でこちらを睨《にら》みつけている。我ながら殺意があるとしか思えない。慣れない考え事をするうちに、祖母譲りの眼光を発していたらしい。「おっ、お時間を取らせてしまって、本当に……」 そう言いながら『第八巻 それから』を紙袋に戻そうとしている。今にも話をやめてしまいそうだった。「迷惑なんかじゃありません」 気が付くと大きな声を出していた。彼女は体をびくっと震わせる。紙袋ごと本を落としそうになり、大あわてで無駄に腕を回した。今度は床に落とさずにどうにか受け止める。ほっと肩で息をついてから、俺に見られていることに気付いて、恥ずかしそうに紙袋で顔を隠した
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俺は眉をぎゅっと寄せて腕組みをする
(1 post)-
Posted 12 years ago #
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