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おばあちゃんの前の持ち主が書いてもらったんじゃない

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  • Started 12 years ago by h20548as

  1. h20548as
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    。「ばあちゃんが大事にしてたもんだろ。無理に寄付なんてしなくても……」「いいのよ」 母はきっぱりと言いきった。「『あたしが死んだらここの本は自由にしていい』って言ってたんだから。あんた聞いたことないの?」「あるけど、処分しろって意味じゃないんじゃないか」 自由に分けていい、つまり大事に取っておいて欲しいという意味かと思っていた。しかし、母はやれやれと言いたげに首を振った。「あんた分かってなかったのね。『どんなものだってあの世まで持っていけるわけじゃなし』があの人の口癖だったんだから。おじいちゃんが死んだ時だって、残ってたものをさっさと処分しちゃったわよ。そういう考え方の人だったの」 そういえば、祖母が祖父の形見らしいものを持っていた記憶がない。祖父が亡くなったのは遠い昔、母が小学校に上がったばかりの頃だと聞いている。ちょうど今ぐらいの暑い季節に、川崎大師《かわさきだいし》へお参りに行った帰りに交通事故に遭ったらしい。「あんたが読むなら話は別だけど?」 いや、読まない。というより読めない。どうせうちに置いてあってもここに並んでいるだけだ。読んでくれる人の手に渡った方がいいかもしれない。「じゃ、俺が車で持っていけばいいのか」 俺はぐるりと部屋を見回した。本棚から降ろされたものの、段ボール箱に詰め終えていない本が畳の上に散らばっている。それらを箱に収めるところから始めなければならない。「そうなんだけど、その前にちょっとあんたに相談したいことがあって」 母は傍らに積んであった本の一部を俺の目の前に移動させた。全部で三十冊ほど。他の本よりも小さくて薄く、少年マンガの単行本と同じぐらいのサイズだ。ささくれを撫《な》でられたように、嫌な記憶が蘇《よみがえ》ってきた。あの時、この部屋で手に取ろうとしていた本に違いない。『漱石全集』という書名に初めて気付いた。あれは夏目《なつめ》漱石の『それから』だったのだ。「どこかにへそくりでも入れ忘れてるかもと思って、あたし一冊ずつめくってたんだけどね……」 そんなことやってたのか。呆《あき》れている俺を尻目に、母は例の『第八巻 それから』と印刷された筺から本を出した。薄いパラフィン紙に包まれた表紙をめくって見せる。「こんなの見つけちゃったのよ、ほら!」 なにも印刷されていない見返しの右側に、細い毛筆で文字が記されていた。さほど達筆とは言えない。文字のバランスや間隔が微妙に変だった。「夏目漱石 田中嘉雄《たなかよしお》様へ」 書きこみは二行に渡っている。「夏目漱石」は見返しのちょうど真ん中あたり、「田中嘉雄様へ」は綴《と》じこみの近くにあった。「これ、夏目漱石のサインなんじゃない? 本物だったら凄いわよね!」 母は目を輝かせているが、俺のテンションはあまり上がらなかった。本物だったら確かに凄いが、偽物だったら別に凄くはない。 本を受け取って開くと、古い紙の臭《にお》いがぷんと立ちのぼった。活字の羅列を眺めているとみぞおちのあたりが冷えてくる。慌てて最後の方までページをめくっていくと、発行年月日が目に飛びこんできた。昭和三十一年七月二十七日。発行元は岩波《いわなみ》書店。「……おばあちゃんが結婚する前の年ね」 俺は首をかしげた。夏目漱石ってそんな時代まで生きてたか? もっと昔の人だった気がするが。「この田中なんとかって人、誰なんだ?」 祖母の名前は五浦|絹子《きぬこ》だ。まったく違う。それにもし夏目漱石が本当にこの人にサインしたとして、どうしてそれを祖母が持っているのか。「知らないわよ。おばあちゃんの前の持ち主が書いてもらったんじゃない。なんか古本屋で買ってきたものみたいだし」 母は手を伸ばしてきて、ぱらぱらとページをめくった。名刺ぐらいの大きさの紙が、栞《しおり》のように挟んである。どうやらこの全集の値札らしい。色あせた字で「全三十四巻・初版・蔵書印 三五〇〇円」と書かれている。昔の物価はよく分からないが、値打ち物にしてはちょっと安すぎないか。誰かがいたずらで書いたんじゃ――。 俺ははっと息を呑《の》んだ。 よく見ると、値札の隅に古風な字体で「ビブリア古書堂」と印刷されている。薄暗い店の中で本を読む美人の姿が脳裏をよぎった。俺の通っていた高校のそばにあったあの店だ。「この全集が今どれぐらいの価値があるのか知りたいのよ。値打ち物ならタダであげちゃうのももったいないし、うちで大事に取っとこうと思うんだけど。そういうことが分かる人、どこかにいないかしら。あんたの知り合いにいないの?」 北鎌倉駅の近くでスクーターを降りて、シートの下にヘルメットをしまった。 前カゴから取り出したデパートの紙袋には『漱石全集』が詰まっている。俺は数年ぶりに「ビブリア古書堂」の前に立っていた。あたりの風景も含めて、俺が高校生の頃となにも変わらなかった。車がすれ違えないような狭い道。古びた木造の建物。錆《さび》の浮いた回転する看板。相変わらず人通りはほとんどない。 きっと、祖母の若い頃からこの店はあったのだろう。新品の本ばかり買っていられるほど、定食屋の娘が小遣いを与えられていたはずがない。多くの本を集められたのは、こういう古本屋で安く買っていたからだ。考えてみれば当たり前の話だ。 俺がここへ来たのは『漱石全集』を見てもらうためだ。それに祖母がこの店に来たことがあるのか訊いてみたかった。さらに付け加えれば、高校二年の夏に見かけた美人の話を聞けるんじゃないかとちょっと期待していた。 六年前のあの日以来、ここを通りすぎるたびに店内を覗きこんでいたのだが、白髪交じりの店主が、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔つきで働いているだけだった。用事もないのに店に入って尋ねるのも気が引けた。今日なら用事もあることだし、ついでに彼女のことを尋ねても不自然ではないはずだ
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    Posted 12 years ago #

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