良廸は、妻の実家に援助を乞うことを、いさぎよしとしない男である。それでも玄機や秀三郎の教育にかかる費用など、富子は夫にかくれて、父親から借り出してきた。 富子は、寡黙な女であった。「何か言い遺すことがあるか」 臨終の床で、良廸が病み疲れた妻の脈をとりながら尋ねたが、かすかな笑みを泛《うか》ベ、「秀三郎を……」 とひとこと洩らしただけである。ひそやかな深みを帯びた母の愛を、今さらのようにかみしめ、秀三郎は肉親の死がもたらす激しい悲しみを知った。その同じ悲しみを、ひきつづいて味わおうとは、むろん夢にも思わないことだった。 安政元年(一八五四)一月、再びペリー艦隊がやってきた。軍艦の数も七隻となり、二月には二隻を加え、こんどは江戸湾に侵入して、開国をせまるのである。 江戸の黒船騒ぎは、本州最西端の辺地ともいうべき長州藩を直撃した。大森海岸警備から、相州警衛という大任を幕府から命じられたこの藩にとって、ペリー再来は、実に身近な事件となった。 藩主は、好生館蘭学教授の久坂玄機に、海防に対する献策を命じた。玄機は、かつて大坂の適塾に学び塾頭までつとめた逸材で、それまでに長短数十冊にのぼる蘭書を翻訳していた,ルイヴィトン モノグラム 財布。その中には当然、医学書がある。とくに種痘《しゆとう》に関するものがふくまれ、玄機は積極的に「引痘」の必要をとなえた。 早くから長州領内でも、数年ごとの周期で天然痘が流行し、多くの死者を出した。助かっても顔に醜い痕《あと》をのこすいまわしい伝染病である。やがて秀三郎の盟友となる高杉晋作も、十歳のときこれに感染し、ひどいアバタ面となった。 長州藩がはじめて種痘を実施したのは、他藩にくらべ割に早い時期の嘉永二年(一八四九)だが、それも久坂玄機や青木研蔵ら西洋医学を志す藩医の努力によるものだった。そのころ玄機は、ジェンナーの種痘を紹介するオランダ医書を翻訳した『治痘新局』を著《あら》わしている。 玄機の訳した蘭書は、しかし医学より軍事に関する書物が多い。「新撰海外方砲術論」十一冊「演砲法律(砲術操典)」七冊 などがその代表的なものである。 幕末、西洋医学を身につけようとする者は、オランダ語を修得して、しきりに原書をあさった。その語学力を洋式兵制の導入にむけ、時代の要求に応えようとする医者も少なくなかった,オメガ メンズ 時計。久坂玄機もその一人である。海防策の立案を命じられたとき折悪しくかれは病床にいた,クロエ トートバッグ 新作。 玄機は、その病を押して、海防献策の執筆にとりかかったのである。「この日のためにこそ」 という気持が、あったのだろう。自分の出番がまわってきたとする気負いもはたらいたにちがいない。 同じころ領内の周防《すおう》玖珂郡|遠崎《とおざき》に、月性《げつしよう》という僧がいた。魁偉《かいい》なその容貌にふさわしい豪毅の人物である,chloe 財布 2013。「男児志ヲ立テテ郷関ヲ出ヅ……」 有名な男児立志詩の作者で、真宗妙円寺の住職だが、本願寺東山別院に招かれるほどの名僧でもあった。酒を好み、詩を善くしたが、尊王の大義を説き、憂国の志士として全国を巡歴し、ペリー来航以前から、海防をとなえた。「海防僧」などとも呼ばれている。 久坂玄機は、この月性と早くから親交をもった。二人はどことなく似たところがあって、気が合うのか、一緒に旅をしたこともある。 似たところといえば、やはり変り者という点であろう。大男の玄機は、医師らしくもなく、並はずれた長い刀を腰に差した。わざわざ打たせた業物である。藩医である玄機は、頭を丸めている,オメガ シーマスター。大入道が長刀をはいているので、旅先でよく人から尋ねられたという。「あなたは何をする人です。撃剣の先生ですか。えらく長い刀ですな」「これか、人を活かす剣である」 などと答えて、大笑いするのだが、酒の席ともなれば、それを引き抜いて剣舞をやったりする。 月性も酒を飲むと賑《にぎ》やかなほうで、たいていの場合、かれが玄機の刀を奪って踊るのを例とした。現在、妙円寺に遺されている月性の肖像画を見ると、法衣をまとった髭面の僧が、長い刀をかざして踊る姿が描かれている。おそらくは玄機の刀であろう。とにかく月性と玄機が一緒にいると互いに昂揚して、何をしでかすかわからないと、周囲をはらはらさせたものだった。 このような逸話からすると、玄機は医師でありながら、武士の世界に傾斜していたことがわかる。蘭書の翻訳で、医学書より兵書に比重をかけているのも、医師の身分から武の世界に踏み出そうとする玄機の姿勢を思わせるのである。このことは、熱い敬慕の目で幼時から玄機をながめてきた弟の秀三郎に、強い感化を与えずにはおかなかったのだ。「区々たる刀圭《とうけい》を執ることにあきたらず……」 といった気持が玄機にある。刀圭とは医療器具のことだ。黒船再来にさいして、海防策を藩主から求められた玄機が、重病の床から無理をして起き上がるについては、そんな彼なりの精神的背景があったとみるべきだろう。 執筆のための玄機の徹夜は、数日にわたった,coach 財布 激安。そして、二月二十七日、精魂尽き果てたかのように、筆をにぎったまま絶命したのである。まさしく武士を思わせる凄《すさま》じい死にざまであった。兄玄機に対する秀三郎の畏敬の念は、深い悲しみと共に、終生忘れ得ないものとなった。 いきなり二人の肉親と死別した秀三郎を追撃するように、こんどは父が床に就いた。 妻に先立たれ、つづいて長男の急死という凶事に見舞われた良廸は、すっかり気落ちした様子に見えた。 それでも秀三郎を嫡子としたい旨を藩に願い出る手続きだけは、辛うじて済ませ、すぐに病床へ倒れこんだ。風邪をこじらせたのも、心身の過労からであろう。
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安政元年
(1 post)-
Posted 13 years ago #
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