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東征大総督府

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  • Started 12 years ago by cheney015

  1. cheney015
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    (中略)中には清水港《しみず》へ着くまで用便を耐《こら》へて、其の為めに船中でも卒倒し、上陸後も病気になつた人もある。実に、実に、牢屋どころで無い、目の前に見た活身《いき》ながらの地獄でしたな,オメガ メンズ 時計!〉 このような〈地獄〉を見ることで、時代が変ったことをこの船の乗客は実感したことであろう。歴史の刻薄な一面である。[#改ページ]第23話 戊辰の江戸 1 慶応四年(一八六八)の正月元旦は快晴に恵まれた,ヴィトン 長財布。しかし、その十二日には前将軍徳川慶喜が軍艦開陽丸で大坂から江戸へ逃げ帰って来て、二月十二日には上野寛永寺大慈院に屏居謹慎してしまった。斎藤|月岑《げつしん》著『武江年表』明治元年(九月八日改元)の項を拾い読みしてみると、三月頃から諸侯ならびに妻室たちが大方自分の藩へ帰国し、旗本衆もそれぞれ知行所へおもむく者が多かった、とある。 やがて新政府軍(東征大総督府)が進駐して来て、尾州侯藩邸、池上本門寺、芝増上寺、浅草六郷家藩邸などを屯営とし、江戸城西ノ丸にも入った。そして〈三月頃より、人心|穏《おだやか》ならず、諸方へ立退くものあり。又|闘諍辻斬《とうそうつじきり》等多く、夜中は別けて往来|尠《すくな》し。又強盗多し〉とあり、一月頃から東海道の駿河遠江《するがとおとうみ》辺より始まった「ええじゃないか、ええじゃないか」の乱舞が江戸市中にまで及んで、伊勢皇大神宮のお札を虚空から降らして世人を惑わせる族輩《やから》もいたが、〈程なく止みたり〉とある,オメガ シーマスター。 このような世情不安の中でも、新春から両国橋の橋詰に足芸女《あしげいおんな》の見世物が評判となっていた。大坂下りの花川小鶴という芸人で、年齢は二十歳ばかり。両足の指を自由自在に働かせて、糸車を廻しては糸をつむぎ、花瓶に花を活け、火打ち石をたたいては行燈《あんどん》に灯をともし、針を使って縫い物はもちろん、きせるにたばこをつめて喫ってみせるなど、見る者を感心させた。 また、四月に入ると、外神田結城座では、女歌舞伎の芝居が興行され、〈見物多し〉とある,オメガ スピードマスター。 女歌舞伎というのは文字通り女役者だけで一座を組んで歌舞伎狂言を観せるもので、篠田鉱造著『幕末明治女百話』にある「神田三崎座の女役者」という話を読むと、だいたいその様子が推測できる。 この女百話の話は、明治も三十年頃の話であるが、神田三崎町の三崎座に岩井|粂八《くめはち》という女役者の一座が永い間女芝居を打っていたという。そしてたとえば「切られ与三」で粂八がお富を演り、錦糸《きんし》という女役者が与三郎になって、「お富さん、イヤサお富ッ」といいながら、お尻をクルッとまくるのが大受けしたというのである。その与三郎は真綿でちゃんと前を包み、その上から六尺ふんどしを巻いてクルッとお尻をまくってみせるのであるが、錦糸の腿《もも》たぶもそう貧弱ではなく、蚊の脛《すね》みたいではない女だったので、|みっともない《ヽヽヽヽヽヽ》という感じはなかったという。おそらく明治元年の女歌舞伎も、このようなお色気で売ったものであろう。 同じ頃、麹町九丁目の心法寺の境内では、曲馬の見世物も興行されていた。 一方では血腥《ちなまぐさ》い戦乱の不安と、一方ではその日その日の歓楽を求める狂騒と、明治戊辰の江戸は明暗二相をくっきりと描き出していた。 五月十五日、雨の中で上野彰義隊の戦さが繰り広げられ、東叡山寛永寺は劫火《ごうか》に蔽われて、全山ほとんどが灰燼に帰した。御門跡の輪王寺宮公現《りんのうじのみやこうげん》法親王は護衛の彰義隊士どもにかしずかれて、根岸から千住のほうに落ちて行った。その後、会津から仙台に脱れ、東北戊辰戦争の渦中で艱難《かんなん》の日々を送る。のちの北白川宮|能久《よしひさ》親王である。 しかし、六月八日には、この数年間中止になっていた川開きの花火が両国で打ち上げられ、隅田川には数多くの屋根船が漕ぎ連ねて絃歌|喧《かしま》しく、水陸の賑わい大方ならず、という浮かれようであった。 おそらく江戸の町民は、公方《くぼう》様への義理は彰義隊という|いけにえ《ヽヽヽヽ》を捧げることで、上野の山の火とともに果たし終えたと考えたのかもしれない。江戸町民の本心はわからない。しかし、きのうまでの公方様|贔屓《びいき》の姿勢はサラリと捨てて、きょうは御一新の風に心地よさそうに横顔を吹かれていた。平和ならええじゃないか、というわけである。 悲しいのは江戸の武士どもであった,coach 財布 激安。敗者となった幕臣および佐幕派大名の家臣たちは、江戸を捨てるか武士を捨てるしかなかった。暗く嶮《けわ》しい戦雲も北越や奥羽に移動して、江戸町民には日一日と遠い存在となって行く。 七月十三日の朝、彰義隊を統括していた天野八郎が潜伏先の本所石原町で新政府軍に捕縛され、「北にのみ稲妻ありて月暗し」の辞世を遺して十一月八日に処刑されたが、それに関心を寄せる江戸町民はほとんどいなかった,chloe 財布 lily。 これも『武江年表』によると、七月頃から下谷|御徒士町《おかちまち》、本所深川、番町辺では、家禄を奉還した小身の旗本・御家人《ごけにん》たちや、きのうまでは幕府とつながって利権の上にあぐらをかいていた元御用達商人どもが、新たに商売を始める姿が続出した、とある。いちばん多いのが骨董屋《こつとうや》であった。先祖伝来の家宝としてきた書画骨董のたぐいを二束三文でたたき売るしかないのである。その他、料理屋・酒屋・茶店・しるこ屋・そば屋・すし屋・漬物屋・紙店・煙草屋・ろうそく屋・乾魚《ひうお》屋など、どれをとってみても、商売の道に慣れない下級武士の妻や娘、きのうまで贅沢《ぜいたく》な暮らしをしてきたお店《たな》の御新造さんやお嬢さんの身過ぎ世過ぎの糊口《ここう》の道であった。
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    Posted 12 years ago #

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