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わたしは若き日のエルネスト・ゲバラの返事に驚かされた

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  • Started 13 years ago by denielecs

  1. denielecs
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    それらの資金は、すべて大戦によって獲得した外貨が充当された。 この急激な改革の犠牲になったのは、それまでアルゼンチンを支えていた農業だった。戦火のおさまったヨーロッパ農業の回復も手伝って、農産物の価格は下落しつづけ、さらには、労働力の工業への移動によって、農業は致命的な打撃をうけた。一九四一年には、八百十五万トンだった小麦の生産量は減少の一途をたどり、十年後には二百三十万トンとなってしまっている。 この経済的な農業へのシワ寄せの波が、農園主として収入を得ていたゲバラ家をも襲ってきた。農園は母セルナのものであったが、一九四七年にはついに手ばなさざるをえなくなり、それはちょうどチェがブエノスアイレス大学医学部に進んだ時期と重なったが、ゲバラ夫妻はこの経済的なことも原因して、別居するにいたった,chloe 財布 lily。 チェは高校時代はエンジニアになるものとクラスメイトからは考えられていた。父ゲバラもまたそれを望んでいたが、かれが選んだのは医学部コースだった。その理由についてかれ自身は何も語っていないが、かれ自身の持病である喘息と、祖母がガンで死んだことなどが影響をあたえたものと思われる。 両親のいずれを選ぶかを迫られたとき、チェは躊躇《ちゆうちよ》なく、母と暮すことを選んだ。セリア・デ・ラ・セルナは、ペロンの社会改革が人気とりのみせかけのものにすぎず、じつは自分の権力を守ろうとするムッソリーニ的ナショナリズムであることを見抜いていた。思想的に彼女は社会主義を信じており、のちにチェあての手紙の中で、自分のことを、全世界が社会主義になるのを期待しているひとりの老女、というふうに表現している。 家計が苦しくとも、セルナは自分の子供たちは大学を卒業しなければならぬという教育方針を決して変えようとしなかった。チェもむろんそれを望んだ。かれはアルバイトとして市役所に一日六時間も勤めながら、学業を続けた。その六時間も、かれはほかのアルゼンチン人のようにまんぜんと職場に出ているわけではなかった。★ なにもアルゼンチンに限ったことではないのだが、ラテン・アメリカ全土に共通する人種的特質に、時間に対する観念のなさがあげられよう。時間の約束というものは、ほとんど守られることがない。 中南米旅行でのひとつの体験談を披露しておきたい。それはメキシコ空港での出来事だ。朝十時ごろ、わたしは八時半に受付が開始されるはずのハバナ行きの搭乗チェックを待っていらいらしていた,OAKLEY サングラス 店舗。そのとき、隣りのアカプルコ行きのデスクに、数人の男女がやってきた。かれらは、係員に搭乗券を出したが、係員から、この午前八時《ヽヽヽヽ》発の飛行機は九時に出ました、と聞かされ、飛行機がわずか一時間の遅れで出発したことに憤慨していた。 革命後のキューバにおいてさえも、この気質はさして改善されていない。とくに官僚機構の中には、呆《あき》れるほど根強く残っている,ルイヴィトンモノグラム 長財布。キューバ外務省はわたしに取材用のプレスカードの発行を約束し、写真とサインのある申請書の提出を求めた。もちろんそのとおりにした。しかし、カードは何度問いあわせても、どのように処理されたのか、さっぱり要領を得なかった。また、取材したい人物や場所についての希望も求められ、文書にして提出したものの、目下交渉中とのみでついに何ひとつとして実現されたものはなかった。時間の奴隷になっているような日本人からみれば、むしろ羨ましいような悠長さといってよかった,スピードマスター オメガ。 すべては長い歴史と習慣の産物である。アルゼンチンの役所は、午前九時から正午まで、それから午後三時までのシェスタ・タイム、午後三時から六時までの勤務になっている。チェのアルバイト時代も同じであったが、時間どおりに出勤してくるものは、きわめて少なかった,オメガ 時計 人気。しかし、チェは時間どおりに出勤していた。かれはそのころ自分用に自分で哲学語辞典をつくっていた。かれはそれを事務所で同僚が出てくるまでの間を利用して行なっていた。 そんなある日、上司が事務室にきてみると、働いているものは、ひとりもいなかった。机に対して執務していたのは、アルバイトのチェだけだった。 上司はチェのまじめな仕事ぶりを大いに賞讃した,ルイヴィトン 財布 モノグラム 三つ折り。そしてかれを昇給させたが、じっさい、チェがやっていた仕事は事務所のためのものではなく、かれの哲学語辞典のための仕事だったのだが……。 5 闘う心 アルバイトを続けながら、少しでも金銭的に余裕が生ずると、チェは国内を旅行してまわったが、その足跡が初めてアルゼンチン国外に印されたのはグラナドスとの、旅行というよりも放浪というにふさわしいそれであった。 アルベルト・グラナドスはチェよりも六歳年長でコルドバの南にあるエルナンドに生まれた。三人兄弟の長男で、その弟のトーマスがチェと同年であった。だから、チェがグラナドスを知ったのは、ハイスクール一年のとき、一九四一年である。グラナドスはすでにコルドバ大学医学部の学生だったが、かれは、大学構内での悪習に反対して、ストライキに加わり、そのためにコルドバ中央警察署に逮捕された。じっさいには、逮捕というよりも、誘拐といった方がよかった。 警察は、大学生たちを裁判にもかけず、食物もあたえようとしなかった。逮捕されたものの家族は、そのために差入れに毎日かよわねばならなかった。グラナドス家の場合、それはトーマスの役目だった。そしてトーマスはクラスメイトのチェをいつも伴った。 ——トーマスとエルネストと話しあっているさい、わたし(グラナドス)は、われわれのあとに続く学生たちが、われわれが誘拐同然に裁判もなくつかまっていることを大衆に知らせるために、街頭行動に出るべきだ、と説ききかせた。 わたしは若き日のエルネスト・ゲバラの返事に驚かされた。かれはこういったのだ。「アルベルト、何もすることはないよ。警察のやつらが警棒であんたのあとを追いまわしたように、街に出たってそうなるだけじゃないのか。何もすることはない……ぼくは、拳銃をくれさえすれば、出て行くつもりだ《〈*九〉》」 街頭でデモをしたところで、何の役にも立たない。そんな生ぬるい方法よりも、武器をくれ、といったのが、わずか十三歳の少年だったことに、グラナドスは仰天したというのである。おそらく、かれはこれをチェがのちに確立した武装闘争理論の萌芽として語っているのだ。 チェの多くの文章の中で、その代表的なものは、『革命戦争の道程』と『ゲリラ戦争』となるだろう。それらの著述の中でくりかえし強調した考え、さらには、みずからをキューバからボリビアへと導いた信念は、ラテン・アメリカを帝国主義の鎖から解き放つには武装闘争をもってするしかない、というものだった。
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    Posted 13 years ago #

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