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結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する

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  • Started 12 years ago by fdamcdscj

  1. 。不承々々彼が引っこんだのは、政治に関与する者は海軍大臣一人、その統制には必ず服するという、彼自身も曾《かつ》て一役買ってきびしく姿勢を正した、海軍のよき伝統を紊《みだ》すことを恐れたからだと思われる。 この点では、「海軍左派」は、少し折り目の正し過ぎるところがあった。それは、天皇の政治に対する折り目正しさとも似通うものがあって、むつかしい問題であるが、そのためにむごい目にあった人々の眼《め》から見れば、いい意味にばかりは受け取れないであろう,chloe 財布 リリィ。 米内は、内閣を組織する時予備《よび》役《えき》に編入され、半年で首相の地位を離れると、そのあとは、海軍省にあらわれても、海軍大将としての公の発言は一切しようとしなかったという。原田熊雄に対しても、そのころ、「自分はもうほとんど世の中と隔絶したような生活をしている」 と洩《も》らしている。武井大助は、「平常の場合ならそれでもいいが、時が時なのだから、米内さんにも、もっと言ってもらいたかった。こういうのは、結局、われわれ自由教育を受けた者と、少年時代から兵学校の特殊教育を受けた者とのちがいであろう」 と言っているが、少年時代からの特殊教育を考えるなら、陸軍の軍人は、もっと年少の時から幼年学校の特殊教育を受けている。それだけでは解釈がつかないことかも知れない。 山本がもし、海軍の伝統を無視して陸軍とは逆の下剋上《げこくじょう》、不服従をやったら、何が起ったであろうか?「世の中と隔絶したような生活」をしていた米内光政は、三国同盟条約調印の報《しら》せを聞くと、自分が海軍大臣であったころのことを顧み、「われわれの三国同盟反対は、あたかもナイヤガラ瀑《ばく》布《ふ》の一、二町上《かみ》手《て》で、流れに逆らって船を漕《こ》いでいたようなもので、今から見ると無駄《むだ》な努力であった」 と言って嘆息した。 緒方がそれを聞いて、それにしても、米内、山本の海軍がつづいていたら、徹頭徹尾反対し抜いたかと訊ねると、米内は、「無論反対しました」 と答えてから、暫《しばら》く考えて、「でも、殺されたでしょうね」 と、如何《いか》にも感慨に堪えぬ風があったという。 三国軍事同盟反対の意向をいだいていたのは、もとより、海軍ばかりでなく、米内、山本ばかりではなかった,oakley メガネ。 興《おき》津《つ》の坐《ざ》漁荘《ぎょそう》で三国同盟成立の報を聞いた西園寺公望は、側近の女たちに向って、「これで、もうお前たちさえも、畳の上で死ぬことは出来なくなるだろう」 と言ったまま、床の上に終日瞑目《めいもく》して語らなかったというし、それより前、枢密院《すうみついん》の本会議にこの条約が諮詢《しじゅん》された時、顧問官の石井菊次郎は、「ドイツ国或《あるい》はその前身たるプロシャ国と同盟を結んだ国で、その同盟により利益を受けたもののないことは顕著な事実である,coach 財布 新作。のみならず、これがため不慮の災難を蒙《こうむ》り、ついに社稷《しゃしょく》を失うに至った国すらある。ドイツ宰相ビスマルクはかつて、国際同盟には一人の騎馬武者と一匹の驢馬《ろば》とを要する、そうしてドイツは常に騎馬武者でなければならぬといった」 と、警告を発しているが、結局流れを阻止する力にはなり得ず、誰も驢馬の眼をさますことは出来なかったのである。 同盟条約調印から約二週間後、山本は原田熊雄と一緒に食事をしながら、「実に言語道断だ。これから先どうしても海軍がやらなければならんことは、自分は思う存分準備のために要求するから、それを何とか出来るようにしてもらわなければならん。自分の考えでは、アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ,coach 財布 激安。要するにソヴィエトと不可侵条約を結んでも、ソヴィエトなどというものは当てになるもんじゃない,オメガ 時計 人気。アメリカと戦争しているうちに、その条約を守ってうしろから出て来ないということを、どうして誰が保証するか。結局自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する。そうして『長門』の艦上で討死《うちじに》するだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらいまる焼にされて、非常なみじめな目に会うだろう。結果において近衛だのなんか、気の毒だけれども、国民から八ツ裂きにされるようなことになりゃせんか。実に困ったことだけれども、もうこうなった以上はやむをえない」 と、非常な決心の様子で語った,chloe 財布 新作。 ソヴィエトとの不可侵条約というのは、この頃から膳《ぜん》立《だ》てがすすめられていて、翌昭和十六年の四月にモスコーにおいて松岡外相の手で調印された日ソ中立条約のことで、大戦の末期ソ聯はこれを破って参戦したのであった。 もし山本が、司令長官を退《ひ》くといって、敢《あ》えて同盟に反対し通したら、結果したものは、或は二・二六事件以上の国内革命であったかも知れない。 国内革命だけでは亡国にならない、対米戦争よりはましだというのが、山本五十六の持論であったが、それでも彼は、殺されたかも知れない
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    Posted 12 years ago #

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